「最後まで諦めなかった」
これは弱い人間が自分の弱さに気づき、別府大分マラソンという最高の夢舞台で自分の弱さに勝ったという話です。
まずは故障の話から始まります。私は昨年の11月に左アキレス腱を部分断裂してしまい、毎年出場しているNAHAマラソンも欠場となりました。普段故障とは無縁だった私にとって大きな故障は15年ぶりです。さらに坐骨結節炎も併発し、やっと痛みが気にならなくなってきたのは3週間くらい経ってからです。
12月の中旬になり、2月の別大へ向けて恐る恐る走り始めました。1カ月少々のブランクというものは驚くもので、まともに走れなくなっておりました。ちょっと走ったらすぐに疲れてしまうし、
『再発したらどうしよう』
『別大を前にしたこの大事な時期になんで故障なんかしたんだ・・』
などマイナスのことばかり考えていたら、あんなに好きだった走ることが全然楽しくなくなり、走力的には完走どころか10km走れるかどうかもわからない状態が続き、心底焦りました。
去年はこの大会で3時間15分54秒の自己ベストを出し、 その1ヶ月後の東京マラソンでは3時間19分前半のセカンドベストを出し「還暦を過ぎても志さえあれば自分は進化し続けられるんだ」などと思っておりましたが、まさかの故障は走力はおろか、これまで築き上げてきた自信すらも根こそぎ奪っていきました。
別大は出場資格がなかなか厳しく、 日本陸連公認コースで3時間半以内(しかも直近3年以内)の持ちタイムがなければエントリーすらできません。実際のレースも厳しい関門が待ち受けており、各関門でキロ5分ペースを越えた時点でリタイヤを余儀なくされます。要するに持ちタイムが3時間半ギリギリのランナーにとってはかなりの厳しい戦いとなるのです。最終の関門は40km地点を3時間20分以内に通過しなければならないのですが、この関門を越えてしまえばあとは歩いてゴールしても完走という扱いになります。というわけで、完走を目指すランナーは3時間20分で40km地点を通過できる走力が最低条件となるのです。
私が初めて別大に出場した2019年は、40kmの最終関門を残り10秒で通過という綱渡りのようなレースでした。当時の持ちタイムは3時間27分くらいでしたので、無理せずギリギリで通過できるようなペースを設定して走りました。ある意味、最高のレース展開と言えなくもありませんが、後々考えてみるとよくぞこんなギリギリで通過できたものだと思います。
今回は満足にトレーニングをすることができないため、3時間半以内(サブ3.5と言います)での完走と目標を立てました。サブ3.5には1kmあたり4分58秒のスピードが求められます。だからと言ってそのペースを維持してイーブンで走り続けることは不可能なので、以前からお世話になっているコーチの「げんさん」に4分50秒/kmでレースペースを設定したメニューを作成していただき、トレーニングを開始しました。(げんさんは私や妻の自己ベストを何回も更新させてくださった名コーチです)しかしながら、1カ月半で満足に走れない状態からサブ3.5まで持って行くことは、現実的にはかなり厳しいものでした。
フルマラソンのレース3週間前によく行う、定番の30km走もできませんでした。アキレス腱をまた傷めたら元も子もないので、インターバルやレペティションなどのスピード練習はせず、やっても閾値走まで。1番長く走ったのは24kmのレースペース走でした。そんなものですから別大を前にして練習の完成度は2割から3割程度と全く話になりません。焦る気持ちとは裏腹に月日はどんどん過ぎていき、あっという間にレースを迎えることになりました。
私はレース前に友人へこんな目標を伝えました。
特: 完走
松: 30kmまで走る
竹: スタートラインに立つ
梅: 受付会場へ行きゼッケンだけもらう
・「特」はたぶん無理。
・めちゃくちゃ頑張って30kmまで行けば、4週間後の東京マラソンへ向けていい練習になるので「松」
・レース1週間前からずっと体調が悪かったので、スタートラインに立つことができれば「竹」
・それも無理だったら選手受付だけして、温泉に浸かって美味しいものを食べて帰るのが「梅」
実際のところ、まずスタートラインに立つことが目標なんて寂しい目標しか立てられなかった私。でも良く考えてみるとこれは『明らかな逃げ』に他なりません。フルマラソンを走るのに松目標が30kmまでなんて。『ダメだった時の布石をすでに考えているようじゃ走る資格はない』と。その時点でもうアウトです。
トレーニングを再開した頃は、フルマラソン4時間切りが精一杯の実力だったこともその一因です。5分半/kmのペースでヒィヒィ言ってたくらいですから。というわけで「どうせサブ3.5なんかできないよ。だって今の実力がこれだし、だから無理。でも温泉には入りたい」と心の中は4D言葉(どうせ→諦め。だって→言い訳。だから→決めつけ。でも→否定)のオンパレードです。去年の別大で3時間15分54秒の自己ベストを出した時のことを考えると雲泥の差です。人間って上に行くには大変な努力と時間が必要なんですが、下にはあっという間に行けちゃうんですよね。
いよいよレース前日の土曜日となりました。私は早めに羽田空港へ行ってラウンジで朝食を摂ってました。メニューはいつもと同じく、おにぎりを味噌汁の中に入れておじや風にしたのを2杯、メゾンカイザーのクロワッサンを2個、そしてオニオンスープにトマトジュース。飛行機の離発着を見ながらボーッとしていたら、なぜか気持ちが前向きになってきて、
・まずはスタートラインへ立とう。
・戦わずして負けなんて一番恥ずかしい。
・3時間半が切れなくたっていいじゃないか。
・精一杯戦った上でのリタイヤだったら胸を張って帰れる。
・自分がやるべきことは今の実力を最大限発揮すること。
これまでの暗雲が一気に吹き飛んだ私は大分へ飛び発ちました。
現地入りしてからレース当日の朝までは冷たい雨が降っていました。気温は一桁台で、ダウンを着込んでいても寒さに弱い私は震える始末。せっかく上がったテンションもだだ下がりです。「明日もこんな天気だったら絶対に走らないぞ」と、私の中の弱気な自分が精一杯訴えてましたが、不思議なことにレース前に雨は止み、マラソンを走るにはいいコンディションとなりました。これを吉と捉え、もう腹をくくって走るしかありません。
起床後より10時ごろまでにエネルギーを貯め込む目的でモルテン320を。そして日々服用しているHolosのCatalyst Cardio Performance(CCP)、Catalyst Recovery(CR)を内服。前者は「レース後半も力強い走りができる」。後者は「ハードなトレーニングでもしっかり継続できる回復力」に特化したサプリメントです。もうできることは全てやらねばと。
別府北浜からバスに乗り、11時前に会場到着。 テントの中で着替えを済ませ、アップを兼ねて走りに行きました。11:30にHolosのCatalyst Zoneを投入。これは発売前から使用させていただき、昨年のサロマ湖100kmマラソンにおいてもかなりの効果を実感できた優れたサプリです。集中力を高め、中枢性疲労を軽減するという効果があります。 11:45にプレナインナップを済ませ、戦闘準備完了です。別大は申告タイム順に整列の順番が決まっているので早く並ぶ必要がなく、進行がとてもスムーズです。
12時ちょうどに号砲が鳴り、スタートロスは40秒。スタートラインを越えたら気持ちのスイッチが入り、なぜか半べそ状態になりました。再びこの地へ帰ってこれたこと、憧れの別大を走れていることに涙腺崩壊。 どうしたことか、前半は緩やかな坂道を下るがごとくスイスイ走れ、ハーフ地点通過が1時間43分37秒と100点満点の出来でした。単純な私は「思ったより調子がいいぞ、Catalyst Zone効果かな。これだったらグロスでもサブ3.5できるかも」と皮算用。(ちなみにグロスとは号砲からのタイムで、スタートラインを越えてからのタイムはネットと言います。今回の私の場合はスタートロスが40秒ありましたので、グロスから40秒引いたタイムがネットタイムとなります。)
しかし喜んだのもつかの間、まさにそれは一瞬で終わりました。 ハーフ過ぎに道路のうねり(バンク)が激しくなってきてから、脚が怪しくなってきました。別大の最初の鬼門は関門ではなく、このバンクなんです。ここで知らず知らずのうちに結構脚を使ってしまうので、より一層無駄のないフォームで、なるべくエネルギーを使わないように心掛けました。とにかく余計なことを考えずに集中、集中、集中。私の視界は目の前に現れる2〜3m先の世界に集約されておりました。フルマラソンにおいては、30kmまでは眠っているがごとく、余計な神経や体力を使わずに走ることが求められます。
集中効果でいつの間にか30kmを通過。タイムの余裕は2分14秒ほど。安心はできませんが上々の展開です。「松目標達成!」なんて喜んでる場合ではありません。ここまできたらゴールを目指すのみ。あとはたったの12.195kmです。とは言っても、マラソンはここからが本当の勝負です。別大のコースは、ここから35kmまでは単調なる一直線の広々とした道路で、放っておくとタイムがどんどん落ちるという、私にとっては第2の鬼門です。ここで再びCatalyst Zoneを投入。
単独ではかなりキツくなってきたので、自分と同じようなペースやリズムで走ってるランナー(仮にAさんとします)を見つけて一緒に走るようにしました。他の大会ですと30kmを過ぎてくると、歩いてるランナー、止まってストレッチをしているランナー、給水所から離れられなくなってるランナーなどが多くなり、自分もその誘惑に駆られることがしばしばあります(誘いには乗りませんが)。しかし別大にはそんなランナーは殆どいないため、この作戦がしやすいので助かります。
Aさんとの併走は、2020年の箱根駅伝、花の2区。東洋の相澤選手・東京国際の伊藤選手のランデブーを想起させるような感動的なシーンでした。トランス状態に入った私の耳には「タン・タン・タン・タン・タン」 と、同時に奏でるふたりの足音しか聞こえませんでした。その時に、どんな風景が目に入っていたのか全く覚えておりません。
「自分もしっかりリズムを刻んで、Aさんの助けになろう」
「このままゴールまで行けたら絶対お友だちになれるな」
なんて思いながら、数キロほど併走させていただいておりました。
しかしこの恍惚のひとときもゴールまでは続かず、 ふと時計を見たら5分/kmのペースを越えていたので、少しペースを上げさせてもらったところ、これまでシンクロしていた足音の二重奏が不協和音を奏でるようになり、徐々にふたりの距離が広がっていきました。
「ここでもうちょっと頑張って!私についてきて!一緒にゴールしよう!」と叫びたかったですが、Aさんがキツそうな顔をされていたので「ありがとうございました!」と心の中でお伝えし、先行させて頂きました。
再び単独走となりました。 気持ちも脚も、ずっしり重くなってきたのがよくわかります。しかもそれに加え脚が攣りそうになってきたので、芍薬甘草湯を取り出しました。この時は給水所がなかったので、水なしで漢方薬を内服する必要性に迫られました。この作戦は、ひとたび間違えば気管に入って大変なことになる可能性もあります。そうなっては元も子もないので、モルテンジェルを「おくすり飲めたねゼリー」の代わりに使用。「モルテンをこんな用途に使ってるの自分くらいだろうな」なんて思いながら祈るような気持ちで飲み込みました。祈りが通じたのか35km手前の橋で脚がやや復活。「この脚を温存していけば、競技場に入ってからスパートがかけられるかも」と思いました。
35km関門を過ぎると残り5kmの看板が見えました。通過タイム、残り時間、距離を瞬時に計算したところ「これ以上タレるとグロスはもちろん、ネットでもサブ3.5ができなくなる」という、やや危機的な状況でした。「これはかなり頑張らないとダメだ」と自分を鼓舞し、重くなってきた心と脚にムチを打ち、両脚が攣るか攣らないかのギリギリの線まで攻めまくりました。それからは1kmずつカウントダウンしながらペースを落とさぬよう、腕を振り続けました。
残り3kmを過ぎ、疲労感が増してきたところ、39.5km地点で驚きの出来事がありました。
『吉田明弘先生!!!』と、フルネームで私の名前を叫ぶ男性の声が聞こえました。その声の先を見ると、なんとそこには「当院かかりつけ患者さんのMさん」が渾身の応援をしてくださってました。ちょうど大分に帰省されていたみたいです。目頭とハートが熱くなった私は、Mさんに右腕を高々と挙げ、感謝の気持ちを全身で表現しました。
Mさんとの邂逅に大きなパワーと勇気をいただいた私は、40km関門を無事通過。関門閉鎖の約1分前でした。ここを越えれば、あとは歩いてもゴールできるのですが、自分はこの2.195km を歩くためにここに来たのではありません。この2.195kmを歩いてしまったら、この先の人生が全てそうなってしまうでしょう。キツくなったら挑戦を止めればいい、諦めれば楽になる。そんな恥ずかしい人生を誰が望むことでしょう。
「ここからを5分/kmのペースで粘ればグロスでもサブ3.5できるかもしれない。体力は限界に近いが、Mさんの応援のおかげで気力はあるし、まだやれる。これまでやってきたことを全て出し尽くして、その高い壁を乗り越えるんだ。子どもたちに頑張ってるお父さんの姿を見せるためにも絶対に諦めないぞ!」と心に誓いました。
こんな強い気持ちになれたのは、別大の1週間前に開催された大阪国際女子マラソンにおける妻の激走ぶりでした。 実は数年前、妻は大阪国際女子マラソンの出場資格を得るべく、つくばマラソンへ出場しました。その時は資格タイムがフルマラソンの公認大会でのグロスタイムが3時間10分00秒以内(現在は3時間07分00秒以内と更に厳しき門)でした。レース本番は何カ所かで応援しておりましたが、各地点で順調にラップを刻み、このまま行けば国際資格ゲットは間違いないだろうと思っておりました。41km時点で妻の姿を発見し「いいぞ!大阪へ行けるぞ!!!このままラスト頑張れ!!!」と絶叫に近い声援を送り、あとはゴールタイムの発表を楽しみに待っておりましたが、その数分後に想像すらしなかった現実が待ち受けておりました。
そこで目にした数字は3:10:01。えっ、、、3時間10分1秒????。
何回も見直しましたが、3時間10分00秒以内という国際資格タイムを1秒オーバーしておりました。たった1秒です。それまで努力を重ねてようやく大阪国際女子マラソンへ手が届くところまで行って、あと1歩・・いや1秒のとこで、するりと逃げていった国際資格。かける言葉がないとはまさにこのことでした。あまりの厳しい現実に涙も出ませんでした。
この結果に対して妻は多くを語りませんでしたが、それからは雨の日も風の日も猛暑の日も厳しいトレーニングを自らに課し、決して言い訳をせず、弱音を吐かず地道にやってきた結果、2023年のかすみがうらマラソンで3時間04分52秒という自己ベストを叩き出し、見事国際資格をゲットしました。
そして本年の1月28日、大阪国際女子マラソンという夢舞台にやってきました。私は子ども2人と友人の計4名で1km、15km、20km、30kmの各地点(30kmには大阪の友人が雨の中駆けつけてくれました)で応援しておりましたが、軽快なピッチで楽しそうにラップを刻む妻の姿がとても美しく、やっぱりレースというのは「これまで努力を積み重ねてきたものだけが演じることができる、最高の晴れ舞台」なんだなと思いました。
ロードでの最終応援地点に選んだのは40km関門の先でしたが、妻はこれまでにない必死な表情をしておりました。胸が熱くなった私はひと一倍大きな声で「大阪へ連れてきてくれてありがとう!!!ラスト精一杯楽しんで!!!」と涙ながらに絶叫。あの日、つくばで経験した無念は大阪の空へと消えていきました。
このあとすぐさま競技場へダッシュし、スタンドで妻を待ちました。ほどなくしてオレンジのキャップを被った妻が競技場に入ってきました。トラックを必死に駆け抜け、全てを出し尽くしたゴール後の妻の姿はとても輝いておりました。 グロスタイムは3時間02分07秒でした。自己ベストを2分45秒塗り替えました。まさに努力に勝るものなしです。私もそんな風になりたい、いやなるんだと強く思いました。
別大マラソンの最終章は、長距離ランナーとしての矜持よりも、大切な家族の存在が自分を奮い立たせ、無我夢中で走りました。残り1kmから競技場までの道は「お帰りなさい!」と「ラスト頑張れ!」と「ファイトー!」などの声援に包まれる最高のビクトリーロードですが、そこの記憶がほとんどありません。うっすら覚えているのは競技場へ入ってすぐの電光掲示板。残り距離と時間を計算すると 本当にギリギリです。がしかし、絶対無理なわけでもありません。残りは300mくらい、ここが最後の正念場です。これまで頑張ってきた両脚や心臓に最後のムチを打ち、渾身のラストスパートをかけました。全てはゴールラインを1秒でも早く超えること、それだけを考え、力の限り腕を振りました。最後のストレートで意識が白み始めてきましたが、更にもう一段階ギアを上げました。
サブ3.5を目指す戦いの終焉は思わぬ形で幕を下ろしました。どうやってゴールをしたのか全く覚えておりません。最後の一滴までエネルギーを全て使い果たした結果、気がついたら私は救護室のベッドの上でした。ゴール後意識が飛び、倒れかかったところを救護班に助けられたそうです。自身初めての救護室です。室内はとても暖かく、テキパキとしたスタッフの対応が心に沁み入りました。周りは脚が攣りまくって動けなくなっていたランナーさんが多く、所々で悲鳴が聞こえてきます。しばらくここで休んでいたら、フィニッシャーズタオルの在庫がなくなってしまったとのことで、救護室のスタッフが「これで良かったら」と無地の真っ白なバスタオルをくださいました。しかも「外は寒いので背中にタオルを入れておきますね」と、看護師さんの心温まる気配りにジーンときました。私にとってはこれまでで一番価値があるフィニッシャーズタオルでした。
ゴールタイムは3時間29分21秒でした。ほんの僅かでも諦める気持ちがあったら3時間半切りはできなかったことでしょう。3時間半までわずか39秒というギリギリのレースでしたが、最後まで諦めずにこの39秒を削り出せたことが、持てる力の全てを出し尽くした結果に他なりません。レース前は失敗したときの言い訳しか考えていなかった弱い私でしたが、家族の存在と最高の夢舞台が私を強くしてくれました。
今回のレースではふたつの大切なことを学びました。まずは「限界は自分の気持ち次第で見え隠れする」いうことです。人は「もうこれ以上無理だ」という状態になると「限界」という言葉を口にしますが、本当の限界に達したことがない人ほど「限界」という言葉を発しやすいのではないでしょうか。「限界」とは自分の弱さが発するまやかしの言葉であると私は思います。人間は自身の中に「強い自分自身」と「弱い自分自身」が共存しているのです。何か強烈なストレスがかかったり、もの凄く高い壁にぶつかり、どうしてもダメだと思ったときにもうひとりの弱い自分自身が「もう限界なのでやめよう」とストップの信号を送り続けるのです。
マラソンというのは常に「強い自分自身と弱い自分自身のせめぎ合い」です。終盤にさしかかって疲労が増し、脚も思うように動かなくなると「もう歩いてしまおう、休んでしまおう」「ここまで頑張ったんだから止めてもいいじゃないか」など、そんなマイナスのことばかりが頭に浮かんできます。今回のレースにおいて、私はどんなに苦しくなっても「限界」とは思いませんでした。すなわち弱い自分自身が口を挟む余地すらなく、強い自分自身が前へ進み続けていたからなのです。「強い気持ちがあれば、限界の一歩先が見えてくる」これは限界へ挑戦した人間しか味わえないテーゼなのかも知れません。
そしてもうひとつの大切なことは、私の恩師・小出義雄監督との出会いから始まります。監督は「夢を叶えようと思ったら、決して諦めずに毎日それを強く思い続けること。それが夢の実現へ繋がるんだ。僕はそうやって夢を実現してきたんだ」と私に教えてくださいました。
そして監督は私が2008年の冬、しかも初めての東京マラソンへ出場するといった大切な時期に故障をしてしまった際、レース直前にこんなメッセージをくださいました。
「今回は思うようにトレーニングができなかったかもしれないが、そんな状態でも、今できることを真剣にやってきた先生の姿を僕はずっと見ていたよ。うまく行くばかりがマラソンじゃない。むしろうまく行かないことの方が多いくらいなんだ。故障したときこそ、真価が問われるんだ。故障もまたマラソンの一部なんだ。今度のレースでは目標が達成できないかもしれないけれど、今回の先生の努力はいつかきっと実を結んでくれるので、前を向いてしっかりやって行こう。マラソンなんて所詮かけっこなんだから。かけっこは楽しくやらなくちゃダメだよ」
まさに今回のレースは監督の言葉通りで、
「最後まで諦めずに、夢を実現しようと強く思い続けること」
これが実践できたから3時間半切りができたのだと思います。
そして監督の教えはもちろんですが、夢の実現には大切な家族の存在がありました。これは決して私ひとりでは叶えることができない夢でした。元はといえば「父親が頑張っている姿をこどもたちに見せてあげたい」と思ったことから始まった私のマラソン人生ですが、実は子どもたちや妻の頑張っている姿に力や勇気をもらっていたのです。
マラソンはたしかに個人競技ではありますが、周囲の方々の理解や協力や応援があってこそ、さらなる上を目指すことができるのです。すなわちそこには「感謝」の2文字がなくてはなりません。今回のレースで、私は「たくさんのありがとう」に包まれ強くなることができました。常に感謝の気持ちを携え、昨日の自分を越えることができるようこれからも努力を重ね、更なる夢の実現を目指していこうと思っております。
まずは今年の6月、サロマ湖100kmウルトラマラソンで完走をすること。この大会は10回完走をすると「サロマンブルー」という称号が与えられ、次回のレースからはサロマンブルー専用の青いアスリートビブス(ゼッケン)を着けて走ることができ、そしてゴール地点の常呂スポーツセンター前の広場に自身の足形が残せるのです。このサロマンブルーの称号をゲットすることが、ここ10数年来の私の夢なのです。
私は2011年の第26回大会に初めて出場させていただいてから、サロマを10回走りました。そのうちとても暑かった第29回大会で自身初となるリタイヤをしたので、完走回数は9回となります。リタイヤした時はまさに「弱気な自分」が早々に諦めてしまい、63km地点で自らリタイヤを宣言してしまいました。暑さのあまりアタマはフラフラしてくるし、脚のところどころが痙攣しまくり、そして内転筋は肉離れを起こしたと思うくらい痛くなり、もう一歩も走れない、いや歩けもしないと思ってリタイヤしましたが、そこで20分近く休んでいたら復活したのです。ゴールまで送ってくださるバスが迎えにきたとき、すっと立つことができ、なんと普通に歩けたのです。リタイヤしたランナーを乗せて、バスは常呂のゴール地点へ向けて出発しました。最初の頃はボーッとしておりましたが、ふと車窓に広がる景色を眺めると、道路脇を必死に走っているランナーが目に入りました。中には立ち止まったり、歩いていたり。それでも前を向いておりました。「なんで自分はこんなとこにいるんだろう。なんで自分は簡単に諦めてしまったのだろう。なんで自分はあそこまで必死に走らなかったのだろう」と胸が締め付けられる思いでした。リタイヤした瞬間はもう走らなくていんだと、胸をなでおろしましたが、全力を出して大会役員からリタイヤを宣言されたのならまだしも、自分の弱さが発した「まやかしの限界」に騙されてのリタイヤ。東京に帰ってきてからも悔しくて悔しくて、自身が下した誤った決断を心から悔やみました。
それからはサロマに対して、より真摯に向き合うようになり、最高の準備をして臨むように心がけました。ハードなトレーニングを積み重ねた両脚は「自分が造りあげた作品」のごとく。スタートラインに立ったときの心境は一点の曇りもなく、笑顔でゴールラインを越える自身の姿しか想像できないくらいのレベルまで持ち上げていきました。
今年もこのような万全の状態でスタートラインに立ち10回目の完走をやり遂げ、サロマンブルーになるという夢を実現させたいと思っております。
レース前の故障から始まった苦悩の日々、そして様々な葛藤や不安を乗り越えてスタートラインに立ち、決して諦めることなく、持てる力の全てを出し尽くした結果、3時間半を切るタイムで完走することができました。そこには家族や周囲の方々の支えがあったからこその結果です。普通の人生を送っていたらここまでの経験はできなかったでしょう。だからかけっこはやめられません。小出監督も天国で喜ばれていると思います。
最後まで諦めず、本当に良かった。
たくさんの感謝を込めて。
2024年2月